Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

ts

HUPO「中国化する日本」読書会案内文
テキスト:輿那覇潤著『中国化する日本』文藝春秋 2011

今回取り上げる上記著作は、
[1]なぜヨーロッパのような「後進地域」が、宋朝近代という「先進国」を奇跡的に逆転して産業革命を起こせたのか?
[2]近代には西洋が中国を凌駕するという、異常な事態が生じたのはどうしてであり、いかにしてそのような、例外的な時代は終焉を迎えたのか?
[3]なぜ、「近代化」も「西洋化」も捗っていないはずだったあの国が、最近また大国らしき座に返り咲いているのか?
といった、個の可能性研究会以来一貫して「グローバル化とアイデンティティ」をテーマに研究活動を続けてきたHUPOが議論する上で格好の問いを、たいへん興味深いアプローチで論じるものです。
 そのアプローチを支える諸テーゼ
1.世界で最初に「近世」(前近代)に入った地域が、宋朝の中国である。
2.宋王朝で導入された社会のしくみが、中国でも、そして(日本以外の)全世界でも、現在にいたるまで続いている。→宋朝の画期性:可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会。
3.日本は、この宋朝以降の中国の「近世」については受け入れず、江戸時代という中国とはまったく別の「近世」を迎えそれが現在まで続いてきた(長い江戸時代)が、そのやり方が終焉を迎えた結果、日本社会が「中国化」しつつある。
4.宋朝で体系化された近世儒学のリメイクとしてのヨーロッパの近代啓蒙主義においては、「神」の概念抜きで純粋に人間の理性を信奉する宋明理学の教えが、中世のキリスト教的世界観を脱する上でも触媒になった。

以上の「中国化する日本」というパラダイムをベースにして、「日本が中華になること」=憲法九条という「中華的普遍理念」を東アジア共同体のベースにするというシナリオを提案しています。
 今回の読書会では、上記著作の諸論点に対して、以下のいくつかの論点の一つまたは複数を批判的に対峙させて議論を方向付けていきたい。
ただし、それぞれがウェーバーやハイデガーレベルの力量の持ち主であっても手に余る問題だといえる。
[1]抽象レベルでの論点:
「中国化としてのグローバル化」をベースとした憲法九条の世界(普遍)理念化のIdeaを正確に理解する上で宋明理学の思想的・哲学的位置づけを行う必要があり、そのためには、(文字社会のなんらかのテキストで辿れる限りでの)多神教システムと一神教システムの位置づけが必要になる。→仮説として、憲法九条は「多神教システム」としての「普遍理念」という逆説的なポジションにあると考えられるが、「神」の概念が欠如した「理学」は(「否定神学システム」としての一神教システムではない)多神教システムに位置づけられるのか? この問いは「中華的普遍理念」の系譜学の問いであり、朱子学(儒教)の系譜と道教の系譜がどう関係しているのかという問題に繋がる。またより根源的には、「遊牧民型社会」が多神教と一神教の両モメントをともに産み出した源流なのではないかという仮説の検討も必要となる。鍵となるのは、多神教と一神教両者の起源とも考えられるゾロアスター教の位置づけである。
[2]具体レベルでの論点:
ヨーロッパ型近代国民国家が実質的に解体した後の世界において、既存の帰属から離脱した者たちがネットワークを形成していくプロセスに着目する際、著者が注目する「宗族のツテ」あるいは「有徳者のネットワーク」を具体的に考える必要がある。そのためには、上記抽象レベルでの論点との関連において、華喬ネットワーク(多神教システム?)と欧米金融資本ネットワーク(ユダヤ一神教システム?)との関係性の位置づけが必要になる。さらに具体的には、著者が、宋王朝で導入された社会のしくみの極点とする清王朝時代以来、中国金融植民地化の基本装置であった香港上海銀行(現HSBC)というファクター(アクター)の現時点にいたるまでの分析が重要である(ただし外部の素人がこの分析を行うのは実質的に不可能であろう)。

2012.12.27.HUPO 読書会 レジュメ
テキスト:輿那覇潤著『中国化する日本』文藝春秋 2011

先日の案内文に対して、以下の論点を補足します。
この本は、読みやすく、とくに興味深い著者自身の論点は『なぜヨーロッパのような「後進地域」が、宋朝近代という「先進国」を奇跡的に逆転して産業革命を起こせたのか?』であるが、実は、その下には難問が隠されていると、私は読みました。それは、著者は先の問いに対して、[1]「銀の大行進」と「産業革命」を関連づけ、[2]比較史研究における「排他的所有権の概念・契約的慣行と法の支配・株式会社の発明などに着目する傾向」に言及するのみで、実は決定的な仮説を提出してはいない、ということです。つまりその仮説の構築は読者に委ねており、その作業においては、「近代」というコンセプトすらいったん括弧に入れる必要に迫られます。本書は、もしかしたら、その隠された難問――実は私たちは「近代化」に関して確実なことはなにもわかっていないのではないか?――を提示するために、書かれた仕掛けかもしれないとさえ思います。
 今回の読書会では、このような問題意識のもとで、以下の諸テーマに着目して議論していきたいと思います。

1.宋朝で体系化された近世儒学のリメイクとしてのヨーロッパの近代啓蒙主義
:著者は「「神」の概念抜きで純粋に人間の理性を信奉する宋明理学の教えが、中世のキリスト教的世界観を脱する上でも触媒になった」とするが、これは必要条件であったとしてもその条件の一つでしかない。少なくても十分条件ではない。また、「中世のキリスト教的世界観」をより抽象的に「一神教システム」と位置づけるなら、必ずしも「ヨーロッパ近代啓蒙主義」がそこから脱却したとはいえない。
→イオニア文明にまで遡る古代ギリシアの哲学・思想、古代ユダヤ教とゾロアスター教、諸子百家、仏教、道教などの系譜学的考察が求められる。

2.ヨーロッパ型の近代社会を支えるインフラとしての法の支配や基本的人権や議会制民主主義
:著者は、これらはもともと中世貴族の既得権益であり、ヨーロッパ型の近代化とは、このような貴族の既得権益を下位身分のものと分け合っていくプロセスだったとする。また、中国にはそれらがない理由は、宋朝の時代に「近世」に入って以来、特権貴族が消滅したからだとする。
→であるならば、実は「中世封建社会」からの根底的な脱却は少なくてもヨーロッパにおいては依然としてなされてはいないことになる。この観点からは、ヨーロッパ型の近代化とは「国民国家」の形成と特権貴族の温存を媒介とした中世封建制の市民階級レベルでの反復プロセスにすぎず、著者のいう「中国化」としての「近代化」ではない。

3.「日本が中華になること」=「憲法九条という中華的普遍理念を東アジア共同体のベースにすること」というシナリオ
→上記1にも関連するが、多神教システムと一神教システムの位置づけが必要になる。仮説として、憲法九条は「多神教システム」としての「普遍理念」という逆説的なポジションにあると考えられるが、「神」の概念が欠如した「理学」は多神教システムに位置づけられるのか? もしそうなら、多神教システム的な諸国家連邦の理念としての憲法九条が、「中華的普遍理念」でもあり得ることになり、たんなる世界帝国化ではない「中国化」が可能になると考えられる。しかし、もし宋明理学の理念があくまで一神教システムの系譜にあるのなら、上記のシナリオの成立は困難であり、「中華的普遍理念」は世界帝国としての「中華帝国」の理念であり続ける可能性が高い。つまり、グローバル規模のネットワーク権力であって、「皇帝」に相当する中枢が存在し続けることになる(行政権力の一元化の維持)。

4.ヨーロッパ型近代国民国家が実質的に解体した後の世界において、既存の帰属から離脱した者たちがグローバルネットワークを形成していくプロセスに着目する際、著者が注目する「宗族のツテ」あるいは「有徳者のネットワーク」を具体的に考える必要がある。
→そのためには、上記の論点との関連において、華喬ネットワーク(多神教システム?)と欧米金融資本ネットワーク(一神教システム?)との関係性の位置づけが必要になる。
もし「中華的普遍理念」を実質的に担保するのが華僑ネットワークであるのなら、中華的普遍理念が一神教システムなのか多神教システムなのかに応じて、人類史が最終的に一元的な行政権力を持つ世界帝国へと向かうのかどうかが決定されてくる。


*與那覇の言う、憲法九条という中華的普遍理念を東アジア共同体のベースにするというシナリオを考える。

→仮説:憲法九条は「多神教システム」としての「普遍理念」という 逆説的なポジションにある。

この場合、「神」の概念が欠如したと言われる中華普遍理念の中核である「宋明理学」は多神教システムに位置づけられるのか? もしそうなら、多神教システム的な諸国家連邦の理念として機能する憲法九条が、同時に「中華的普遍理念」でもあり得ることになり、たんなる「世界帝国」化ではない「中国化」が可能になると考えられる。しか し、もし宋明理学の理念があくまで(超コード化を本質とする)一神教システムの系譜にあるのなら、上記のシナリオの成立は困難であり、「中華的普遍理念」は世界帝国としての「中華帝国」の理念であり続ける(またはそのようなものとして換骨奪胎される)可能性が高い。つまり、グローバル規模のネットワーク権力であって、「皇帝」に相当する中枢が存在し続けることになる(行政権力の 一元化の維持)。

*中長期的に米国(英米)の覇権が衰退していく世界において、既存の帰属から離脱した者たちがグローバルネットワークを形成していくプロセスに着目する際、華喬ネットワーク(多神教システム)と欧米金融資本ネットワーク(一神教システム)との関係性の位置づけが必要になる。

→もし「中華的普遍理念」を実質的に担保するのが華僑ネットワークであるのなら、中華的普遍理念が比重として一神教システムなのか多神教システムなのかに応じて、人類史が最終的に一元的な行政権力を持つ世界帝国へと向かうのか、それとも諸国家連邦システムへと向かうのかが決定されてくる。


Copyright(C) Nagasawa Mamoru(永澤 護) All Rights Reserved.


© Rakuten Group, Inc.